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社会福祉部による寄付先訪問 vol.1


静岡県にある神山復生病院と国立駿河療養所は、長い間みこころ会社会福祉部より、ご寄付をお渡ししておりました。今回寄付の継続に当たり、社会福祉部が現地を視察なさり、下記訪問記をおまとめ下さいました。



2024年12月4日、社会福祉部の寄付先でもある、神山(こうやま)復生病院と国立駿河療養所を訪問いたしました。

<神山復生病院について>
1886年(明治19年)、パリ外国宣教会のジェルマン・レジェ・テストウィド神父(1849~1891)が宣教の中、一人のハンセン病女性患者と出会い、社会で放置された同病者の救済を思い立ち、御殿場鮎沢村に6名の患者を収容したことから始まりました。その後、神山に場所を移し、日本初のハンセン病の療養施設として多くの患者さんが治療生活を送ってきました。

みこころ会とのつながりは古く、寄付は1918年(大正7年)から始まり、その後、聖心会シスター岩下亀代のお兄様である岩下壮一神父さまが病院長をされていた(1930〜1940年)事もあり、特に熱意をもってご援助が続いたそうです。

<国立駿河療養所について>
全国に13カ所ある国立ハンセン病療養所の中で最も新しく、1945年(昭和20年)、ハンセン病傷痍軍人のための療養所として御殿場に開所しました。 入所者数は開所以来のべ1300名、1956年(昭和31年)には470名を超えていましたが、2024年現在の在籍者数は36名です。


神山復生病院訪問

病院の運営を行っているクリスト・ロア宣教修道会所属、シスター徳永のご案内で病院内を視察させて頂きました。

現在はホスピス棟と介護医療棟に分かれ、ほとんどが個室の病室だそうです。ハンセン病元患者さまはお二人のみとなり、他の患者さまと同じく介護医療棟にいらっしゃいます。

元患者さまのお一人と廊下でお会いし、シスターが「こちら、みこころ会の方ですよ」とお声をかけられると、車椅子上で組んでいた足をわざわざほどかれ丁寧にご挨拶下さいました。元患者さまが、みこころ会へ信頼を寄せて下さっていることが伝わり感動いたしました。


その後、病院の学芸員の方のご案内で復生記念館の見学をいたしました。明治30年に建てられた瀟洒な洋館です。

当時はヨーロッパからの支援もあり、映写機による映画上映会には地元の住民も参加し一緒に楽しんだり、近道の為に住民が敷地内を通り抜けたり、といった地域交流もあったとのこと、昭和初期にテニスに興じている写真も残っており、 想像していた負の歴史とは違う一面に驚きました。当時としては最先端の娯楽があったのもカトリック教会の後ろ盾があったからこそと思います。


2024年は岩下神父様の生誕135周年にあたり特別展を開催しており、引き続き拝見いたしました。

敷地内の紅葉は見事でした。

神山復生病院 シスター徳永と



国立駿河療養所訪問

神山復生病院から車で10分ほどのところにあり、こちらは11万坪の山の傾斜地に多くの施設が点在していました。 敷地内には住居の為の施設の他にも、ご夫婦で暮らせる小さな戸建て住居もありました。カトリックの聖堂、プロテスタント教会(現在は信徒さんはいらしゃらないとのこと)、神社、ゆうちょ銀行のATMなどもあり、ちょっとした集落のようでした。高台にある納骨堂からの富士山の眺めは絶景でした。


カトリックの聖堂は、現在「駿河カトリック教会」という名称となっていますが、1957年、三光町の元教員でいらした6回生の故 田代安子様がご尽力されて作られました。小さな集会室のような部屋(建物は元監房)に祭壇が設置され、その後ろ側に準備室の香部屋(こうべや)がありました。 現在の入所者さんのうちカトリック信徒さんは3名となり、残念ながら現在はこの聖堂でのごミサの機会も殆ど無いようでした。田代先生の教え子数人が1962年に訪問したことから、その後復生病院の方々とも合同でそれぞれを交互に訪問する交流が始まりました(詳細はみこころ会会報第80号掲載寄稿文)。

今回お目に掛かったお二人は、はつらつと気さくな方々で、徹底した感染対策をしながらも笑い声溢れる面談となりました。帰り際には飲み物のお土産までご用意いただき、30分ほどの短い交流でしたが、私たちの訪問を楽しみにしていてくださっていたことが伝わり、心温まるひとときでした。

入居者の皆さまはご高齢になられておりますが、この交流の灯を絶やすことなく次世代に繋げ、今後もご支援の継続ができればと切に願います。

文責 社会福祉部常任幹事 68回生